すきにやらせろ

離と言います たまに書きたまに消える 名前はすきに読んでください

走らせた

走行距離360km、走行時間6時間。

今日のわたしの時間。県外から帰ってくるためにずーっと車を走らせた。慣れない山道も嫌いじゃない。 渋滞にはまったり、高速で煽られることよりははるかに。

 

運転中はラジオや好きな曲をYouTubeで流している。家までの縮まらないように感じる時間を流れさせるために。

「這うように走る車」みたいなフレーズを思い出した。わたしの好きな西の魔女が死んだ、の始まりにある文章。わたしの車も軽だから、必死にエンジンを回して、揺れる車体と小さなタイヤを永遠に転がして。

たしかに、這うように走っているな、と感心した。眠くて眠くて、寝落ち寸前の記憶。

病院からの呼び出し

ここ2週間くらいSNSもこちらのブログでもなにも書いていなくて、ちょっと溜まっていたみたい。

見切り発車で2つめ書きます。

 

たまに登場する母の話。

年間何回も入院しているから、家にいる期間が年々短くなっている。持病もあるから薬の量も多いし、ぱっと見た時も体調不良な印象を受けるでしょう。

少し前にまた病院で話を聞いて、荷物の配達と近況報告をして。そうしたら、今までなかった症状でさらに調子が悪いと知らされる。

もう長くはないんだろうな、と感じる。余命宣告はされていない。でも、薬は飲んでも飲んでも良くなることはないし、ゆっくりゆっくりとおわりに近付いている、と思う。

腕も足もどんどん細くなって、口から食べれる量も少し減っていて。わたしよりかは随分身長も高いのに、体重ばかりが同じくらいになりつつある。何年か前までのしゃんとしていた背中を思い出す。いや、あの時も猫背だったな。今より少し背すじが伸びてたくらい。

 

先の話をする。

苦しい思いはしてほしくないし、、本人も望んでいないから、わたしは来るべき時には延命治療は選択しないと思う。だから、あんたの看取りはわたしができるように。

 

吐き出したかったこと、おわり。

夢〜メンタル

金曜日から毎晩悪夢を見ています。

 

自分が浮気していたり、遠出する序盤に車をぶつけたり、よく覚えてないけれど不快だったり。ほんとは破滅願望でもあんのかな、でも夢くらい見ないかいいもの見せてくれよ。おかげで少し不眠気味。いやだいやだ。

 

夢見が悪いことも、ストレスもあるんでしょうけれども精神的に不安定なように思う。

一挙手一投足ごとにしにてーなが付きまとうんですよね。車のエンジンをかけた瞬間とか、服を着替えている時とか。

今のところ本を読んでいる時と風呂に浸かっている時間は大丈夫そうなので、常に風呂に入りながら読書すればメンタルはもとにもどるかもしれません。

 

今回は仕事と仕事においての対人関係が原因です。対人、と言っても誰が悪いとかそういうもんではない。前みたいに酷い人もいないし。

うまくやれねえなあという瞬間が積み重なって、あー今の言葉違ったな、とかあの人ならもっとうまく言うな、とか。人と比較してたらキリがありませんが、できないそとができる人が近くにいると若干卑屈にもなってしまっている、その差が今目の前で見せつけられているような感じ。

正しくは、勝手に見つめているわたし、ですが。

 

こういう風に下に下にいく時期はあります。

そして、まあそういうもんだから仕方ない、で通り過ぎるのを待つことができるようになったのも成長です。きっとね。

ひとまず今できるのは、本を読んだり、家事とか料理をしたり、結果が目に見えてわかるものをこなすこと。少しずつなにかできることを積み上げて、目を逸らしていくこと。

 

特にエッセイ。元々ノンフィクションが好きだから手に取りやすいのもある、あとは誰かの価値観がわたしを救ってくれるかもしれない、というちょっぴりの期待をこめて。

 

追伸:こないだ寝落ちしましたすまんね

母について

わたしの母は子供を2人育ててきた。贅沢せず、料理も家事もそれなりにしてくれたと思う。学生のわたしは手伝いをサボってよく怒られていたのを思い出す。社会人になってから母の貯金額を聞いて、投資でもしてたのかと動揺したのは記憶に新しい。

 

当時は夕飯に惣菜パックがよく並んでいた。揚げ物が苦手だったわたしは、実家暮らしの後半はいらないと伝えることが多かった。わたしの分は買わなくていいと。

それでも母は、食器にキッチンペーパーを敷き、惣菜をのせて、電子レンジで温めたものを食卓に並べる。たまにつまんで、大して話もせず食事が終わる。

こんな感じの日々を淡々と20年以上も続けている母。

 

わたしも食べ物の好みがあって、生野菜が好きだからサラダが食べたいとか菓子パンは嫌とかの小さい希望もあった。でもあまり伝えなかった。言っても余計にお金がかかるし、そんなことで話したいと思えるほどその時の関係も良くなかったから。

 

数年前に一人暮らしを始めてから、よく言う親のありがたみというものと、適度な距離感が手に入ったと思う。

反抗期とか、色んなことも重なって感情的になっていたわたしは、母とは人間的に合わないと思っていた。でも今なら、たまに会って、話をしてくらいならうまくできる。

多分今がいちばん良い関係だろう。相手を人間として見ることができるから。

 

振り返るとなんであんなにも腹立たしいと感じていたのかよく分からない。

あの時の感情はあの時だけのわたしが抱えている。それをぶつけられていた母からしてみればたまったもんではないだろうが。ごめんな。

今更ながら、やっと母と関わる方法が分かった気がする。

 

そして、母は持病があって、恐らくもう働けない。

今のまま、様々な面から、母の存在を面倒に思わない日々ができるだけ長く続きますように。

友人

たまに遊んでくれる、付き合いの長い友人がいます。

その人本当に「「良い」」んですよね。面白い人間、という言葉が似合う。比較的衝動的に行動をするわたしにも、乗り気でついて来てくれますし逆も然り。人に対して嫌悪感がなく、苦手な人嫌いな人がいても、わたしの思う嫌味な態度がない。フラットに接することができる人だと思います。ほんとうに今後一生の付き合いをしたい友人です。

 

でも、一度はこの人のことを恋愛的に好きだ、と思ったこともありました。サイコーな人すぎて、この人がいいなあと。ただ、ある出来事があってしばらく離れた時期にその感情は無くなりました。案外さっぱりしたものです、話したくねえ、縁も切れるかもってくらいだったから無理もないか。連絡手段も一時なくなりましたが、数年前からまた遊ぶようになりました。結局のところは腐れ縁ってやつなのかもしれません。ちなみに、今まで恋愛感情を抱いたことについては伝えたことはありません。今ちゃんと友人でいられているから。

 

わたしは友人と呼べる方はがごく僅かで、相手がわたしのことをどう思っているかは正直分からない人も含まれています。わたしは友人と思っているけれど、あなたはどう?なんて聞けないですから。自信もないし。でも、この友人は手放しで仲良し!と言える数少ない中のひと握りです。一緒に出かけるとご飯をゆっくり食べてしまう。時間が足りないくらいに遊ぶのが楽しい。

 

あなたには、わたしより長生きして、わたしの葬式に出てほしいなと思います。

素敵・自己嫌悪・買い物

素敵なひとになりたいと思う。

 

よく漫画だとか小説で、品の良い方が描かれる。見た目はもちろん、言動も額縁に飾れるくらいにきれいな人。

振り返ってみると、わたしはお世辞にも品が良いとは言えない。食器はシンクに溜め込むし、掃除もろくにしないしとそもそも日常生活がよろしくないのだから当たり前か。

大人になったら健康的な一人暮らしをできると思っていた寝落ち常習犯のわたし、変わることなんてないから安心しな。まあ自分のお金で買った座椅子とこたつでくつろいでいるから、当時の理想像には多少は近づいているのだろうか。

 

わたしは素敵、品の良い人と言われると、イメージでは椎名林檎が浮かぶ。伏し目が美しい人。自我が明確。わたしのなりたい理想。

自分の気持ちが赴くままに生きたらああなれるんだろうか、いやきっと無理だ、わたしにはそうできるほどの胆力があると思えない、いやそんな後ろ向きな姿勢だからこそ…と自己否定は止まない。なんで好きなことを話したいのに自己嫌悪寄りな話になってんでしょうか。くだらん。

 

そんなこんなで考え始めるといつものように病んでしまうので、今年もやりたいことをやりましょう!というモットーを掲げた。曲がりやすい自分の感情だけれど、やりたくなったことはきっと早くこなした方がいいから。

その志をもとに、今年の元旦ずうっと憧れていたブランドの商品を買った。自分の、自分による、自分のためだけの買い物、最高。

コンセプトに惹かれて調べたら出会ったもの。見た目に惹かれて、ええいと勢いのままに購入した。持っていたら素敵だなあと。

届いてからまだ使えてはいないけれど、ふさわしいお披露目日が今月あるからそこまで待ってておくれ。

 

きょうはこれでおわり。

 

面白さとかね

前回のブログで次に話したい!と言ったことは書くのに時間がかかりそうなので、いったん別の話をします。

 

小さい頃から漫画、小説、インターネット文学、SNS、様々なものに触れてきましたがほんとうに多種多様な文ばかりでした。

読みやすい文章、おもしろい言葉選び、美しい文体。いずれもわたしには無いものです。

 

長年SNSで思いの丈を吐き出すことはしていたけれど、ブログ書くようになってから尚更感じています。

何を読んで、どう世界を見つめたらそんな文章が書けるんだ。嫉妬、羨望、ごちゃごちゃとした感情たちを抱える。

心地よくてするすると入り込む、あなたの価値観が根を張るようなものに触れるとそれはもう勘弁してくださいよと両手上げちゃいます。

 

なんというか、あなたすげーなの気持ちだけで終わってくれない。わたしもこんなものを書きたいと思ってしまう。喉の奥にこんなん書けるかよって僻みも同居してしまう。

 

お恥ずかしい限りなんですが、この感情には承認欲求も混じっていると思います。小さい頃の思い出とかは別として、見て見てママをこじらせて歳をある程度まで重ねてしまった。

これからどうなるんだろう。

 

10年後のわたしは、気持ちよく、ああ素晴らしい文章だ!って読んでいるんでしょうか。

それとも変わらず、指の爪を噛み睨みつける卑屈さを抱えているんでしょうか。

 

せめて、できないなりにはできないなりのうつくしさを携えて歩いていきたい、そう思います。